往年のプログラムより:「菅野 暢」先輩

戦前・戦後のK.M.C

私が慶応義塾の予科に入学しましたのが昭和十五年で、紀元は二千六百年等と国威発揚ということで生き生きと軍国主義が頭をもたげてきた頃でした。 勿論予科一年の時にK.M.Cの部員になったのですが、当時はクラブ員で演奏会に出られる数が約三十名、初歩部員、幽霊部員を入れてもせいぜい五十名足らずの部員で、勿論女性は一人もおりませんでした。 それでも春秋二回の定期演奏会は有名なゲストを入れて軍人会館(現在の九段会館)や日比谷公会堂で盛大に開催されたものでした。当時関係のある演奏会といえば、K.M.Cとコンセルポピュレール(服部先生指揮のオーケストラ)だけで、今みたいに合同演奏会の、やれ○○先生何周年記念会、出版記念会、○○パーティ、はては「ビートルズがやってきた」等とうるさいことは一切なかったので精神分裂にならないで過ごせたように思います。 K.M.Cの練習も今のようにきびしい統制の下に於ける団体行動の必要もなく、少人数なもので、在学生は勿論先輩の名前まで全部知り尽くし、それでも足りなくて大変凝ったアダ名までつけて和気あいあいとした雰囲気の中で練習したものです。 練習が終ると、必ず近くの喫茶店でお茶を飲み、とりとめのない放談に花を咲かせ、帰りにはお茶代など誰が払ったかわからないようにいつの間にか済んでいる。 全く夢みたいな良き時代の物語です。 その当時は足代やお茶代など何の苦にもならない意識外の僅少な金額だったのです。 さてクラブの組織といえば、幹事が一人で会計と譜面係の三人で殆んどが取仕切られておりましたが、譜面係は今のようにコピーの機械などありませんので、新入部員に割り当てて写譜させたもので、中にはわかりにくいクイズみたいな譜面もありましたが、後に佐藤吉治、吉川保夫君等と写譜の英雄が現れ一人で責任ある写譜をし、間違いも訂正されるようになりました。 会計は良き時代とはいえ、お金がかからない反面、収入も少ないので、常にギリギリの線でまかなわれていたようです。 幹事は、外務、内務、プログラム、広告、その他庶務的仕事一切を一手に引受け、演奏会近くなれば、とても学校に行ってのんびり講義など聞いている暇はない程の忙しさでした。 僕が学部一年になった時、何と思ったか三年上級の古田中さんがいきなり幹事の仕事を申し送って卒業してしまいました。 以来途中戦争のブランクを間にはさんで、終戦後もニ、三年、幹事をつとめましたので、K.M.Cの歴史上最も長い内閣ということになりました。 これが本能みたいなものとなり、今までK.M.Cの演奏会には一度も欠かさず出演する先輩になってしまいました。 数年前父が死んで、家の後始末に田舎に帰らねばならなくなり、「先生今度こそ演奏会に出られません」と服部先生に電話しましたところ、「いや(のん)ちゃんが出ないとK.M.Cの歴史が狂うぞ」とか何とかうまいこと説得されて、仕事途中でかけつけたことを覚えています。 何しろ「総練習には親が危篤でも出ろ」等と物騒な合言葉等があり、また常日頃服部先生から「演奏会の為の練習ではない、練習のための練習だ」等と教えられ、こういった思想が徹底的に浸透されていましたので、のんびりしている反面、今よりも精神的にきびしい何かがあったように思われます。

次に戦中、戦後のK.M.Cに話を移すことにしましょう。 戦時色がますます濃くなり、楽器などいじっているような奴は非国民であると、白眼視されるようになってきました。 それでもマンドリンクラブの練習は続きました。 ギターを持って電車に乗れば、「お前はそれでも日本人か?」といった非難の視線が感じられ、外を歩いていれば、防空演習でバケツリレーをやっているおばさん連中ににらまれるし、今では到底考えも及ばないような原始的な現象に悩まされながら、それでも練習を続けたものです。 でも流石に部員も少なくなり、或、雨の練習日に四、五名のメンバーで練習しましたが、服部先生がゴム長靴をはいてこられ、指揮をやめて自らマンドラを受け持ち合奏した時には、いささか悲愴感を覚えたことは忘れられない思い出として心に刻みこまれております。 我々個人ではどうしようもない戦争という巨大な波が、とうとう服部先生の身辺にも押しよせてきました。或る日突然に応召の赤紙が……「戦争への招待状」が先生宅に舞いこんできたのです。 「俺に兵隊のケツ洗いをさせて何になる!!」(多分、先生は衛生兵の役割だったと思います)といきまいてみたものの、大日本帝国の至上命令とあっては、如何ともし難く、我々有志数名が各々楽器を持って先生宅を訪れ、先生作曲の「次郎物語」を演奏しながら、先生の断髪式を行い、入隊先の営門まで見送りに行きました。 日の丸の旗を振って、たすぎがけした先生の姿が営門にすいこまれるのを見送り、ああこれでK.M.Cも終りか、と思ったものです。 重い足をひきずりながら、先生の留守宅へ引返そうと、渋谷駅の改札を入ろうとすると、後からポンと肩をたたく者がいる。 振返ってみると、何と今見送ったばかりの服部先生がにこにこ笑って立っているではありませんか。 全く驚きました。 「先生は神様じゃないか」などと瞬間考えたものです。 どんなことがあったかは説明を省略しますが、いずれにしても「即日帰郷」という処置がとられたわけです。 当時としてはいささか不名誉なことだったのですが、先生宅で秘かに祝盃を上げ、すぐ同志数名に連絡して、その足で暗い東京を後にして、菅平に逃避したのでした。 戦時中とはいってもずい分と余裕があったものだと思います。 その年(昭和十八年)には、あの有名な学徒動員があり、部員を続々と戦場に送られました。 そして小生もその十二月に、学徒出陣の第二次応召で入隊することになりました。 服部先生は、「そのうち、また必ずK.M.Cの時代がやってくる。平和もそう遠くない。そしたらノンちゃんまた大いにやろうぜ」とはげまして下さいました。 何しろK.M.Cでは服部先生の存在は絶対的なものだったし、神通力を持った教祖的と表現しても良い、我々のアイドルでもあったので、私自身、そんな時が必ずめぐってくるし、どんなことがあっても生きて帰ってくる信念に燃えていたものでした。 長期抗戦終りなき戦争といわれた第二次大戦も昭和二十年の八月十五日にピカドンの原爆で終止符となりました。 長い長い暗い戦争でした。 この間、K.M.C生活のブランク丸二年間になります。 しかしK.M.Cの諸氏は悪運強かったのか、戦死者も殆んどなく、皆ぞくぞくと復員してきました。 服部先生が予言していたK.M.Cの時代がめぐってきたとばかり、水を得た魚のようにクラブ活動が盛んとなり、部員も七、八十名になり、動きも活発になってきました。 こうして念願の日比谷公会堂で、大演奏会を開催すべく準備にとりかかりました。 時あたかも慶応義塾創立九十周年の行事初日の一日前だったことから、一大隆盛を極めたものでした。 K.M.Cの行事としては今と何ら変りなく、春秋二回の演奏会と夏の菅平合宿と演奏旅行が主な行事でした。 当時の演奏旅行は、食物不足の折から、ごはんを食べさせてくれれば、ギャラは要らないというような、人間の動物としての基本的な条件で旅をしたものです。 勿論ギャラなしでしたが、結構楽しかったものと思い出されます。 その後すぐK.M.Cの危機が訪れてきました。 というのは、復学した人数は非常に多かったのですが、それが大量卒業ということになったので、再び戦前のような二、三十名の部員に激減してしまいました。 止むをえずそれから二、三年間、YMCAの講堂を借りたり、小さな会場で、現在の部内演奏会程度の規模で細々とつながねばならなくなり、従って全面的に先輩に依存するような演奏会が多く、苦難の道を歩まなければならなくなりましたが、先輩と現役が親しく交わり、K.M.C一家といった感じで、ある意味に於いて楽しい一時期であったと思います。 やがて戦争の傷跡も癒え、今の様な大企業的K.M.Cになったのは、昭和二十七、八年頃だったと思います。

K.M.C O.B 菅野 暢
<1970年(昭和45年)11月「第105回定期演奏会」プログラム冊子掲載>